小唄徒然草 別版5月・5月に教えたい小唄2

五月雨に池

(唄・春日とよ栄芝)

本調子・替手三下り 
川田小一郎 詞
清元お葉 曲

五月雨に 池の真菰の 水増して 
いずれ あやめ かきつばた
定かに それと吉原へ 
ほど 遠からぬ 水神の 離れ座敷の夕映えに
ちょっと 見交わす 富士筑波。

解釈と鑑賞

コンピューターが読んでくれます。

川田小一郎(当時五十六才)の作詞、清元お葉(当時五十二才)の作曲で、作詞も作曲も共によく、その構想が小唄好みで、『江戸小唄の完成期』である明治中期の雰囲気を知るのに、格好の江戸小唄である。この場所は、向島の水神の八百松(一説には植半ともいう)。当時の高級な料理旅館で、東京と離れていたので、明治の政治家や役者、芸人や、土地で名ある芸妓達の、隠れ遊び、遠出に格好の場所であった。
当時川田さんは、吉原の二人の芸妓を寵愛されていた。一人は吉村の吉次、古来、芸者に美人なしと相場のきまっていた吉原に、いと珍らしくも美人で男嫌いで通った芸妓で、それが評判で、引張りだこだったが、のち川田さんが落籍された。もう一人は廓内揚屋町の菓子屋『桜の木』の娘で、仲の町の小糸といった芸妓である。

この小唄は、その一人を連れて水神の離れ座敷で遊んでいると、計らずも廊下でぱったり逢ったのがもう一人の芸妓という訳で、芸妓は互いにそれを知る筈はなかったからよかったものの、とんだ女の鞘当てで、粋な人だけにすぐこれを小唄にしたものであった。五月雨に池の真菰の水増して何れ、あやめ引きぞわずらふ。の短歌を借りて冒頭に出し、『引きぞわずろう』と云う意味から、『いづれかあやめ杜若』と言い廻し、定かにそれと吉原へ で吉原の吉次を匂わせ、終りに『ちょっと見交わす富士第波』で女の鉢合せの富士額を利かした文句で結んだものである。
節付は最初、二世清元梅吉(当時三十八才)が、座興で付けたと言われるが、現今のものより、もう一つ清元調のものであった。それを川田さんが余り気に染まれず、もう一度直ぐ付け直す様にと、この文句を使いの者に持たせて浜町のお葉の所へよこしたので、お葉は鏡台の前で髪を結ってもらいながら 手付を案じて、川田さんの所へ駈けつけたという話である。替手の三下りも、お葉が付けたもので、この替手は二世梅吉も共々相談に乗ったという。
当時お葉は五十二才、清元はもとよりのこと、小唄も正に円熟の境に達した時の作品で、草紙庵は、この小唄を、自由自在、みごとな手づけ、まず手付のお手本でしょうな。カンのいい人ならこれで作曲のコツが呑みこめますぜ。かかりがこのギンで『五月雨』と落着いてかかり、「いずれはあやめ牡」をカンにしたなんざア大変 力の入ったもんです。『定かに』が『すががき』で、『それと吉原へ』で遠音に廓の騒ぎを聞かせ、『ほど遠からぬ水神』が一中節、『ちょっと見交わす富士筑波』で、富士を高く筑波を低く唄っているなァうまいもんです。何とも言えないと語っている。

この小唄は、五月雨の水神気分を唄ったものとして非常に流行し、歌沢では『寅派』が之を薬籠内に納めている。作詞の川田小一郎氏 (1836~1896・天保七年~明治二十九年)実業家。土佐藩士で川田恒之丞の次子。明治三年、藩の後援で岩崎弥太郎と共に九十九商会を創立し、運輸航海の業を開始した。のち三菱会社に合併し、以来、弥太郎を助けて、事業の経営発展に努力したが、同社が日本郵船会社となるに及んで職を辞した。明治22年日本銀行の総裁となり、翌年貴族院議員勅選、27年日本銀行総裁重任、日清戦争当時の財政の難局に立って顔る才腕をふるった。功により翌年男爵を授けられたが、29年11月、61才で没した。旧式な大尽風の豪放な遊び方を好み、吉原へ行く時は、お茶屋は桐半、取巻きの芸者が、踊りのすみ江、河東節のおりえ、お直、新内のおちやら、吉原の名物の木遺のお〆、それに清元延信。若い所でお定、お夏といった顔触れ。また芸人が好きで、何時も招んだのが落語の三遊亭円朝、河東節の山彦秀次郎、芝居では九代目団十郎、升蔵、団八、清元ではお葉、二世梅吉が非常に屓贔を受けたものであった。子の小唄が流行し料亭、八百松には、その後『さみだれ』の座敷というものが出来、二、三回建て直しもしましたが、現在では残っておりません』と小林栄氏は書いている。