小唄徒然草43


小唄徒然草43 吉田草紙庵作曲の小唄3

1,小唄 三千歳 本調子
2,小唄 上野の鐘 本調子
3,小唄 蛇山 三下り

の3曲をお届けします。

小唄 三千歳

本調子
唄・春日とよ栄芝  作詞・市川三升作  作曲・吉田草紙庵

 
一日逢わねば千日の 思いもつもる春の夜も
静かに更けて冴えかえる 寒さをかこう袖屏風
入谷の寮の睦言も 淡き灯かげに浪うたす
隙間を洩るる、雪下し。

解釈と鑑賞

[季節] 陰暦初春一月下旬
[名題] 『天粉上野初』世話物。明治17年(1881)新暦三月新富座、河竹阿弥作。
講釈師松林伯円(まつばやしはくえん)の『天保六花撰』の河内山宗俊(九世団十郎)を筆頭に金子市之丞(初代左団次)、片岡直次郎(五世菊五郎)森田の清蔵(せいぞう)、暗闇の丑松(五世小団次)、大口屋三千歳(八世半四郎)の六人を芝居に仕組んだもので大当りであった。 今日上演されるのは『河内山』と『直 侍』のくだりで、三千歳直侍の色模様は清元『忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)』清元お葉作曲、出語りは四世延寿太夫で、今日も流行している。
[あらすじ]一月末の、春とは名のみの冴えかえる寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、上野の暮六つ (午後七時)の鐘の音も凍る入谷田甫(たんぼ)を、数々の悪事に追われる身の片岡直次郎が、吉原で深く契った大ロ屋の三千歳が入谷の寮に出養生にきていると聞き、一目暇(いとまごい)をしてから高飛びしようと、人目をさけて入谷村へ来は来たが、互いに逢うことを堰かされているので、いきなり三千歳を訪ねる事ができず、近くの蕎麦屋に立寄ると、毎夜大口の寮に治療にゆく、按摩の丈賀(じょうが)に出逢い、手紙をしたためて、三千歳に渡してくれと頼み、あとからそっと寮の門の扉を叩く。知らせ嬉しく三千歳は、飛び立つばかりに立ちいでて『一日逢わねば 千日の、思いに妾(わたしゃ)や患うて⋯⋯』
どうで永らえいられねば、殺して行って下さんせと、直次郎に縋(すが)りついて、降る雪と、積る名残はつきぬその間に・・・・、途中で会った 弟分の暗闇の丑松が、寝返りをうって訴人(そにん)したため、捕手は大口の寮をひしひしと取囲むのであった。

[小唄解説]小唄は、みな清元『三千歳(忍逢春雪解)』から採ってある。 直侍の小数々の悪事に追われる身の直次郎が、好みの半纒、頰冠り、尻端折り 下駄がけ、大黒傘という姿で、雪の中を忍ぶ姿を眼に浮かべて唄ってほしい。 道次郎は、五代目菊五郎以後、十五代目羽左衛門の極めつきとなって、雪道に悩む鶴のように細い足 は、ほとんど直侍の一性格でさえあるような感じを見物に植えつけてしまった、と劇評家、金沢康隆氏は言っているが、『歌舞伎名作事典』では、この小唄は、その直侍の足を白鷺の足と見立てて唄っている。 『一日逢わねばは色っぽくやさしく、『寒さをかこう袖屏風』は、直侍の後からソッと三千歳が両袖で肩を抱く所を想像して戴きたい。

小唄 上野の鐘(直侍)

本調子
唄・春日とよ栄芝  作詞・市川三升  作曲・吉田草紙庵

上野の鐘の音も凍る 春まだ寒き畔道に
積るも恋の淡雪を よすがにたどる入谷村
門のとぼそに たちばなの 忍ぶ姿の直次郎。

解釈と鑑賞

1の三千歳と同じ

小唄 蛇山

三下り
唄・初代 松峰照(?) 益田太郎冠者作詞/作曲  吉田草紙庵/補曲

蛇山の庵室で 迎火焚けば門日の 提灯の中から
ヒュードロドロドロドロと化けて出たのがお岩さん
赤子と偽り伊右衛門に 石地蔵抱かせて ヒヒヒヒ

これも 女に邪険から 優しくされればつけ上り
気に入らなければ怒り出す 小言を言われりゃ直きに泣き
浮気をされれば角を出す さりとて殺せば化けて出る
ヤッ!ほんとに女はこわいもの けれども 居なけりゃ困るでしょ
ヤッ!皆さん精々御用心
エ~ェ!怖やの 怖やの
ヤッ! ゴジャゴジャ ゴジャゴジャぁ~ぃ!

解釈と鑑賞

この曲は、私が、国立劇場と銀座の観世能楽堂で三味線を独奏で弾いた時、
四谷と新庚申塚にあるお岩様のお墓のある、妙行寺に行って、お参りしてきました。後日、わたしが脳内出血で、寝たきりになってもおかしくない大病を患った時、治してくれたのは、「きれいに三味線弾いてくれたから」とお岩様が助けてくれたのよと、博多にいる、高名な霊能力のある方がおしえてくれました。ありがたい曲です。
もう少し、歩けるようになったらお岩さんにまた会いに行き、お礼を言おうと思います。物語では、お岩さんは、怖く描かれているが、実存のお岩さんは、良妻賢母の貞淑な女性であったと、歴史学者達は言っています。

[季節] 陰暦仲夏 五月中旬より初秋七月十三日
[名題] 『東海道四谷怪談』世話物。
文政8年(1825年)七月中村座。四世鶴屋南北作。
三世菊五郎がお岩、小平(こへい)与茂七(よもしち)の三役早変り、七世団十郎が伊右衛門を勤め大当りで、7月27日より暑中を9月19日まで打通し、代々音羽屋の家の芸となった。 一番目に『忠臣蔵』をすえたので、時代を忠臣蔵の世界にとっている。
[あらすじ]塩谷の浪人、民谷伊右衛門は、主家没落の後、妻お岩と雑司が谷四谷町に住み、手内職の傘張りなどをして貧しい生活を送っているが、とかく行状が修まらないので、お岩の父、四谷左門がお岩の離縁を迫るのを、浅草観音裏田圃で闇打にする。 隣家は裕福な高師直(こうのもろのお)の家中、伊藤喜兵衛であるが、孫のお梅がいつか伊右衛門を見染めて、是非婿にと所望されると、伊右衛門は師直(もろのお)への仕官を条件に、お梅との祝言を承諾する。喜兵衛は出入の按摩、宅悦(たくえつ)と計って、初産後のお岩に、血の道の妙薬と偽って毒薬を盛るので、お岩の相好はみるみる世にも怖ろしい形相に変る。五月中旬の夏の夜、伊右衛門と喜兵衛一家のむごい仕打を知ったお岩は『思えば思えば恨めし、一念通さでおくべきかと悶え死ぬ。
丁度この日、お岩の産後に雇い入れた小者が、実は同藩小汐田又之丞(おしおたまたのじょう)の中間(ちゅうげん)小仏小平(こぼとけこへい)で、主人の病を治したい一心から、伊右衛門の家伝の妙薬ソウセキセイを盗んだのを捕えた伊右衛門は、小仏小平(こぼとけこへい)が、お岩と不義をしたという悪名をつけて嬲り殺し、お岩と小平の死骸を一枚の戸板の裏表にくくりつけて、早稲田あたりの流れに水葬する。それからのち、お岩と小平(こへい)は怨霊となって伊右衛門に執念深くつきまとい、まづ、お梅との祝言の夜に、 喜兵衛とお梅にのり移るので、伊右衛門は我知らず、花嫁と舅を斬り殺して四谷を立ち退く。それから四十九日経った七月始、伊右衛門が、本所砂村(すなむら)の隠亡堀(おんぼうぼ)りに夜釣に行き、偶々顔を合わせた喜兵衛の後家お弓を殺すと、戸板にくくられたお岩と小平(こへい)の亡霊が、両眼をかっと見開いて恨言をいう。 伊右衛門は遂に本所蛇山庵(へびやまあん)の和尚を頼んで、六部の宿をする庵室に逃れて、仏の加護にすがるが、衆生(しゅじょう)の百万遍の念仏もその甲斐なく、お盆の十三日、お岩の亡霊のために、伊右衛門は父母もろ共取殺される。

「小唄解説」
『四谷怪談』は、江戸末期の頽廃的な世相を余す所なく描いた世話物の傑作で、小唄は芝居の 見せ場をそれぞれ採り上げている。
小唄『蛇山の庵室』は、お盆の十三日、藪の中の庵室で、伊右衛門が、お岩の亡霊に悩まされ、取殺される所で、小唄としても、始めは芝居がかりで出て、後半『これも女に邪樫』からくだける、なかなか難しい曲である。三下りで、お岩の亡霊が現れるくだりは、小唄蛇山では、盆提灯の 中から、産女のこしらえ、白装束に乱れ髪、腰から下は血に染んだ姿で、乳呑子を抱いて現われるので、 伊右衛門がその乳呑子を育てようと抱くと忽ち石地蔵に変る。鼠が数多群がってかみつき、『ホホホホホ』 と皺枯れた声で笑い乍ら、仏壇の中に消えるなど、伊右衛門とその両親を取殺す所を唄っている。作詩、 作曲者とも手慣れたもので、小唄の面白さをよく出した曲である。 [注釈]斧琴菊小紋(かまこときくこもん)は尾上家ゆかりの模様。 隠亡堀(いんぼうぼり)砂村(すなむら)は当時は海に近く、焼き場(隠亡)があったので、南北が隠亡堀と名づけたのである。
浴衣の模様の四つ輪、三島菊(みしまきく)は 尾上家ゆかりの紋。 迎火=七月十三日、精霊を迎えるために門前で焚く火。焙烙(ほうろく)で苧殻(いもがら)を焚く。 木魚は、念仏のときに叩く木製魚形の仏具。
入相の鐘は、夕暮につく鐘、晩鐘。
薄どろは、歌舞伎下座音楽鳴物の一。幽霊、変化、妖術使い等の出現に使うもので、大太鼓を長撥で打 ち、烈しいものを大どろ(幽霊の引戻しの時など)、かすめて打つものを薄どろという。
焼酎火は、劇場用語。幽霊が現われる時に使う。 昔は針金の先へ焼酎を浸した裂をつけて燃したが、今はアルコールを使い、火を青くするため硼酸を加え、それと見せる。