小唄徒然草45

小唄徒然草45 の配信です。

1、小唄 勧進帳(月の都)
2、小唄 青柳の糸より(仮名屋小梅)
3、小唄 長兵衛(阿波座烏)

1、小唄 勧進帳

本調子
唄・春日とよ栄芝  作詞・七世松本幸四郎  作曲・吉田草紙庵

月の都を立出でて 身は鈴懸の旅衣
紫匂う竜胆も たたく時雨にうなだれて
今は露おく鬼あざみ 深き情の関越えて
気も晴れ渡る花の道 飛び六法の蝶一つ

解釈と鑑賞

[季節] 陰暦 晚春 三月三日頃
[名題]『歌舞伎十八番の内・勧進帳』時代物。
天保十一年(1840年) 三月 江戸河原崎座、三世並木五瓶 作。
長唄四世杵屋六三郎作曲、四世西川扇蔵振附。七代目団十郎の弁慶は、初代団十郎の生誕百九十年の 賀としての記念上演であった。謡曲『安宅の関』の脚色である。

[あらすじ] 源義経は、兄頼朝にうとまれ、文治三年二月十日の夜、京都を去り、越前国(福井県)の白山 (叡山の修験者の行場)に身を隠して雪解を待ち、同勢二十名が山伏に姿を変えて、奈良東大寺大仏殿建 立の大勧進の巡行といつわって、陸奥(岩手県)藤原秀衡をたよって、安宅の新関にさしかかったのは、都より遅い桃花のふくらみ初めた三月の節句のころであった。 安宅の関は加賀国(石川県)にあり、近年廃絶したままになっていたのを、鎌倉の命で俄に新関を構えたもので、関守は加賀の守護富樫左衛門尉で、『およそ山伏と見たら、同行多勢たると一人二人たるを問わず、めったに関を通すなと布令されていた。先達の弁慶は、例によって東大寺勧進の山伏と名乗り、『勧進帳』を読めと関守に望まれて、笈(おい)の内にあった往来の巻物(手紙)を取出して、高らかに読みあげ、つづいて『山伏問答』も難なく切り抜け、いざ通ろうとすると、強力姿の義経を怪しいとにらまれ、 既に大事に及ばんとしたが、とっさの機転に、涙をのんで金剛杖で義経を打擲した弁慶の苦衷を、憐れと察した関守富樫の情により虎の尾を履み、毒蛇の口をのがれた心地して、主従は陸奥国に落ちてゆく のであった。

[小唄解説] 勧進帳が長唄としても名曲であり、芝居としても屈指の所作事であることは、今更言うまでもない。小唄は、長唄のよい所を採り入れ、最後に舞台の花道における弁慶の飛び六法を唄っている。『月の部 旅衣』までは長唄の謡(うたい)ヒガカリから、『露をく鬼あざみ』は長唄の『萎れかかりし鬼あざみ、霜に露置くばかりなり』から採ってある。この唄で『紫匂う竜胆』は義経『たたく時雨』は兄頼朝『露おく鬼あざみ』は弁慶『深き情の関』は富樫を指し、唄の意味は、武運赫々たる義経が、兄頼朝にうとまれて、京を追はれて諸国流浪の旅は、誠に痛はしきことと、なげく弁慶の主思いの誠心にうたれた富樫の情によって、無事に安宅の関を越え、気も晴れ渡る花の道を、飛ぶが如く走り去るという意味である。

[注釈] 月の都は、京の都を美しく言った言葉
鈴懸は、山伏の服の上に着る法衣
花の道は、三月の花の咲く道と芝居の花道とをかけている。道に蝶一羽が舞っている。
飛び六法は、歌舞伎の特殊演出。六方の一種。荒事や大時代の役が、花道の引込みに、手、足、身体を 働かし、神速に駈けゆく気持を象徴すること。車引の梅王丸、国性爺の和藤内の引込みがそれで、弁慶 の引込みは片手の飛六方である。
安宅の関は、北陸線で金沢より西の小松駅から海の方へ出た所にあり、現在海岸の砂上に関趾の碑、富樫 と義経を祀った祠と、その陶像がある。

2.小唄 青柳の糸より(仮名屋小梅)

本調子
唄・春日とよ紅葉  作詞・宮川曼魚  作曲・吉田草紙庵

青柳の糸より 胸の結ぼれて もつれて解けぬ恋の謎
三日月ならぬ酔月の うちの敷居 も高くなり
女心の詰きつめた 思案のほかの 無分別
大川端へ流す浮名え。

解釈と鑑賞

[季節] 新暦 仲夏 六月
[名題]『仮名屋小梅』明治物。伊原青々園原作、真山青果脚色、大正八年十一月新富座。
小梅(河合武雄) 一重(喜多村緑郎)。
明治二十年六月九日夜、浜町酔月樓の女将花井小梅が、箱屋の峰吉を大川端に誘い出し、
出刃庖丁で殺し た事件の劇化は、明治二十一年四月・中村座『月梅薫夜』(河竹黙阿弥作、五世菊五郎)。
明治三十六 年二月・真砂座『花井お梅』(伊井、河合一座)があり、大正に入って『仮名屋小梅』、昭和に入ると十年 十一月・明治座『明治一代女』(川口松太郎作、花柳章太郎)が決定版となった。

[あらすじ] 新橋で押しも押されもせぬ一枚看板の芸者仮名屋小梅は、門閥もなく師匠もない津の国屋沢村銀之助を、持って生れた俠気から贔屓し、売り出しの人気役者に仕立てるが、その銀之助が櫓下(新富町)で も丸抱えの下っ端芸者玉槌屋の蝶次と馴染み、小梅が銀之助に贈った羽織を仕立直して帯にして蝶次にや ったのを知った小梅は、新富座の芝居茶屋うた島で、銀之助と蝶次が逢っている所へ、酒に酔って血相を 変え、『太夫に会って、ぬられた顔の泥を始末させるんだ。』ととびこみ、果ては剃刃を振り廻す。折か ら茶屋にいた矢の倉の一中節の師匠宇治一重は、衝立の反対側からその手をつかんで放さず、『本当に悪いお酒だねえ』と、小梅をたしなめ、真底から銀之助の贔屓になれと意見するので、始めて自分の銀之助 贔屓はみえだと知った小梅は、酒の酔もさめ、銀之助、蝶次と三人で話し合って、互いに後腐れなく別れる事とする。 太夫との恋に破れた、小梅は酒もふっつりとやめた代りに、座敷もなまけ放題、芝居も見ず、『女の意 地は別れたあとにあるのさ』と、旦那の山村重兵衛に頼んで、蝶次を妹芸者として新橋に家を持たせて自前にさせる。銀之助の男衆の兼吉は、嫌な奴で、小梅と太夫の仲が切れるとすぐ手の裏を返す遣口(やりぐち)で、そのうえ、小梅の家を尋ねて、別れた筈の蝶次がこの頃樽屋(待合)で太夫と逢っていると告げ 末だに忘れかねている小梅は、再び血相を変えて待合の樽屋の銀之助の部屋にとびこむが、 蝶次は別の客と一緒、太夫は一室でセリフの書抜を稽古中で、小梅は新橋中の物笑いとなり、兼吉はお払い箱となる 山村の旦那は落ち目になった小梅に芸者をやめさせ浜町に待合『酔月』を出させ、兼吉を拾いあげて使用人とするが、小梅の心の痛手は益々深くなり、再び深酒と浮気に身を持崩し、自分よりずっと年下の浜本という書生に入揚げて、酔月を外にする事が度重なるので、業を煮した山村は、酔月の金庫の鍵を兼吉に預ける様にする。兼吉はしてやったりとほくそ笑み、旦那のある身で、男をこしらえて家を飛び出すようなふしだらな女将さんは、家に入れる事はお断りだと居直るので、書生の浜本が怒って兼吉の所へ怒鳴り込むのをよい 幸 に、浜本を警察へ突き出すと脅す。 粋月の家の敷居も高くなった小梅は、その夜兼吉を大川端に呼び出し、『浜本を許してやってくれ自分も酔月に入れてくれ』と頼むが、兼吉はせせら笑って取合わないので、兼吉が銀之助との仲を無残にも打ち壊した重なる恨に逆上した小梅は、思わず隠しもった出刃庖丁で刺し殺し、浜本の事を旦那に頼んで く警察に自首して出る。

[小唄解説] お梅の恋の相手は芝居では銀之助となっているが、田甫の太夫と呼ばれた明治期の女形で『今牛若』といわれる程の浮気者であったことは誰知らぬ人もないが、お梅(芝居では仮名屋小梅) がその恋に破れた苦しみから、人殺しの罪を犯したというのは、明治情話史のうち最も哀れな物った。小梅を演ずる河合武雄の牡丹花の様な艶麗さは、全く切って、はめたような当り役で、喜多付の演ずる 渋い一重との対照は、当時の新派の二つの華と称された。箱丁の峰吉は、芝居では兼吉となっているが、 大阪人で小才(こさい)がきき、若い癖に顔に皺のある、痩せた貧相な男であったという。 小唄『青柳の〜恋の謎』は、小梅が銀之助との恋のもつれから、自暴自棄になって年下の男に入揚げていく心境を、枝垂(しだれ)柳の枝がもつれもつれて解けぬ様に見立てて唄ったもの。『三日月ならぬ」は、小梅の経営する酔月樓の枕言葉で、この小唄は新内調を入れて三味線の手もよく、大川端といえば必ず出される小 唄である。

3、小唄 長兵衛(阿波座烏)

鈴ケ森 二上り
唄・春日とよ栄芝  作詞・市川三升  作曲・吉田草紙庵

阿波座鳥は浪花潟、藪 鶯は京育ち 吉原雀を羽がいにつけ
江戸で男と立てられた 男の中の男一匹 いつでも訪ねて
ごぜえやし 蔭膳すえて待っておりやす。

解釈と鑑賞

[季節] 陰暦 晚春 三月下旬
[名題]『うきよつか、ひよくのいなづま』世話物。
文政六年1823年)三月、市村座。四世鶴屋南北作。不破・名古屋の 鞘当と権八小紫の比翼塚とを打って一丸とした狂言。実録では出会うことのなかった権八と長兵衛とを出会う様に脚色した狂言で、原作六幕のうち、二幕目返しの鈴ヶ森は、『曽我の対面』「石川五右衛門の山門』と同様、独立した一幕物として上演される。
初演は権八(五世岩井半四郎)長兵衛(七世団十郎)であったが、のち五代目松本幸四郎の当り役となった。

[あらすじ] 因州鳥取の城主松平相模守の家来、白井正右衛門の一子、権八は、性来武芸に長じて喧嘩乱暴を好み、 寛交十二年三月廿日の夜、叔父本庄助右衛門(ほんじょうすけえもん)を殺害して国許を立退き、江戸表へと急ぐ途中、五つ半頃 (午後九時)刑場のある鈴ヶ森(品川)に通りかかる。 これより先、飛脚が通って権八というお尋ね者の出奔を知った雲助共は、褒美の金にありつこうと、権八に討ってかかる。大勢の雲助どもを打ちこらして追ひ散らした若衆姿の権入の、美事な手の内を、駕の中から感心してぢっと見ていたのは、当時花川戸で名うての男、幡随院長兵衛で、『お若えの、お待ちなせえやし。』と声をかけ、権八の前科はきかず、持前の男気を出して世話をしよう『いつでも訪ねてごぜえやし』と言い、権八と江戸で再会を約して別れる。

「小唄解説] 小唄は、昭和七年六月、九代目団十郎三十年追善興行のとき、市川三升作、吉田草紙庵曲で出来上ったもので、九代目の長兵衛と五代目菊五郎の権入の出会いを唄ったものである。
歌詞は、長兵衛が権八に言う幕切の言辞をそのまま採り上げたもので、大阪京都までその名の高い、江戸の名物男、幡随院長兵衛の太っ腹が唄いこなせれば、この唄は成功である。
この唄は、最初に一をうって浪音を聞かせ、つづいて蜩三重(ひぐらしさんじゅう)之が弱めになったところで、九代目の声色で『阿波座鳥は浪潟やぶ』まで一息にもっていき、チリリンとハヂいて、『うぐいすは』は京都の感じで柔かく節に入り、ホーホケキョを三味線に現わし、京育ちとなる。合方は浪音と『さつまさ』を使い『吉原雀を羽がいにつけ』は吉原雀の通いなれた土手八町の三味線で江戸っ子調に唄い、『江戸で男と立てられた』はカンで、『男の中の』は節でゆき、『男一匹』は、九代目張りで言って、『一匹』は節にする。『いつでも訪ねて』は『たんねて』と節でゆき『ごぜえやし』をセリフで言うが、これは軽くつめて言うこと。『かげ膳すえて』は節、『待って』を節で、『おりやす』は大きく幕切のセリフ を利かせて声色でゆき、送りは箱根八里の合方となるのは鈴ヶ森の幕切の感じをそのまま使った。これが草紙庵 の構想である。

[注釈] 阿波座鳥、阿波座は大阪の地名で、その辺を啼きつれる鳥で大阪の名物。これに浪花新町の廓をぞめく客をかけており、藪鶯は、笹啼きの鶯で京の名物。
笹啼きの鶯の声は、コチラ・・・・
これに島原の廓をぞめく客をかけている。 吉原雀は、四月末より日本に渡来し、沼沢(しょうたく)河辺のの茎を巧にさばいて虫を捕えてたべる、行々子(よしきり)の異名で 江戸の名物。ヨシキリの姿と鳴き声コチラ
https://www.youtube.com/watch?v=nPfv7t-hQrM
よしきりのこれに吉原を流してあるく素見(そけん)ぞめきの客をかけている。 男と立てられたは、男と推奨されたの意。 蔭膳は、不在中その人の為に毎日膳部を特に作ること。 長兵衛の墓は、慶安三年四月十三日没。墓は浅草松葉町、源空寺にある。
幡随院長兵衛のお墓は、コチラ
https://t-navi.city.taito.lg.jp/spot/tabid90.html?pdid1=128