小唄徒然草41

今回は、小唄界に小唄作曲家として、大きな足跡を残した、「吉田草紙庵(よしだそうしあん)」の小唄をシリーズでお届け致します。

吉田草紙庵
よしだそうしあん
(1875―1946)
生年明治8年8月8日(1875年)
没年昭和21(1946)年12月5日

小唄(こうた)作曲家。本名は金太郎、草紙庵は元来茶道の号であったが、もっぱら小唄作曲に用いた。初め長唄を習ったが、16歳から清元(きよもと)に転向。初世菊輔(きくすけ)に師事して菊之輔の名をもらう。小唄処女作は30歳ごろで、1916年(大正5)ごろ結成された「東京小唄会」では作曲を受け持ち、家業の左官職に戻ってからも作曲を続けた。とりわけ歌舞伎(かぶき)、新派の当り狂言の作曲は草紙庵の「歌舞伎小唄」として定評を獲得した。
さらに旧来の座敷小唄をホールや劇場で演奏する「舞台小唄」にまで進展させ、取材分野の拡大によって新風を吹き込むなど、近代小唄界の隆昌(りゅうしょう)に多大の功績を残した。
大正期から小唄の作曲に専念。
芝居小唄を創作するなど新生面を開き、第二次大戦後に訪れた小唄全盛時代の礎を築いた。

大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、31年3月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当たった)により小唄塚は建立された。
 

小唄 一の谷

本調子
唄・春日とよ栄芝  作詞・七世 松本幸四郎  作曲・吉田草紙庵
 
 
東雲の あけゆく空にあかねさし 渚を見れば波白く
寄せては返す須磨の浦 青葉の笛か松の風 名に橘の香を
添えて 菊と牡丹の面影を 二枚つづきにうつす錦絵。

 

解釈と鑑賞

季 陰暦仲春二月七日『一谷嫩軍記』時代物。宝暦元年(1751年)十二月豊竹座人形净瑠璃、並木宗輔作 寿永三年二月七日、卯の刻(午前六時)ひよどり越えの急襲によって、一の谷の平家は無惨にも源氏に破れ、主上の御座船を始め一家皆々兵船に乗って屋島こ落りぶる。
参議経盛の無官の太夫敦盛は、乗遅れじと須磨の浦辺(神戸市)から駒を乗り入れると (埼玉県)の熊谷次郎直実に扇をあげて差招かれ、駒を返して戦うが、もとより熊谷の敵にあらず、忽ち 組敷かれる。
真実も、吾子小次郎と同じ年配の、可憐な公達化粧に『この君一人助けたとて勝ち戦に負けもせじ、ひとまづここを落ち給え』と言いすてて別れんとするが、平山武者所に見つけられ涙をのんで敦盛の首を落し、敦盛遺愛の『青葉の横笛』を自分の腰に移して立去らんとすると、敦盛の後を慕ってここまで来たが、武者所のために深傷を負わされて瀕死の玉織姫が『敦盛さまを討ったは如何なる人か恨めしや、せめて名残に御顔を、一目なりとも見せたべ』と、敦盛の首を顔に押あて、嘆きと共に息を引取る。 [小唄解説]小唄では、一谷嫩軍記の二冊目『須磨浦』のくだりを唄っている。
豪勇無双の熊谷と、年は十六七、黒々と歯に鉄漿を染め、うっすらと公達化粧の痕をのこした若武者敦盛との組討。後の山より平山武者所に『平家方の大将を組み敷きら助けるは、二心に紛れなし』と大音 声に呼ばわれて、涙をふるって敦盛の首を落す件、敦盛の首を顔に押あて『宵の管絃の笛の時』を追憶して嘆く悲惨な玉織姫の姿。流石の熊谷も『ああ、何れをみても蕾の花、都の春より知らぬ身の、いま魂は天ざかる、鄙に下りて亡き跡を、問う人もなき須磨の浦』と、弓矢取る身の悲しさ、世の無常を感ずる といった芝居の一幕を、二枚続の錦絵に刷って売り出したものである。
この小唄は、昭和十一年四月歌舞伎座『団菊祭』興行に因んで、九世団十郎の熊谷(牡丹)、五世菊五郎の敦盛(菊)を、団十郎の薫陶をうけて熊谷役者となった七世幸四郎が唄ったもの。
「東雲の~浪白く」までは、熊谷が海の彼方を見渡すところ、「寄せては返す須磨の浦」熊谷と敦盛の組討を
『青葉の笛か』は組伏せられた敦盛が『はや首はねられよ。熊谷殿』と言う所を、『松の風』は熊谷の 『ああ是非もなや』という思い入れを唄ったものである。 『名に橘の香を添えて』は、その月、上演の『一の谷』に、十五世羽左衛門が敦盛に扮していたことを詠 みこんだものである。

小唄 辰五郎

本調子 上調子二上り
唄・春日とよ栄芝  作詞・英十三  作曲・吉田草紙庵
 
 
東雲の櫓太鼓や初がすみ 曙匂う紫に
かすむ鳥居の芝育ち 神の恵のかけまくも
引くに引かれぬ 意地づくは 散らす火花も神明で
さかりを競う花の春。

解釈と鑑賞

季節 陰暦一月七日(初春)から三月廿四日(晩春)まで
【名題】『神明恵和合組組』世話物。明治23年(1890年)新暦三月新富座、竹柴其水作となっているが、 実際は黙阿弥が全体の筋立をした。神の恵とめ組をかけた鳶と角力の喧嘩を芝居に仕組んだもので、五代 目菊五郎のめ組の辰五郎が大好評であった。「あらすじ」文化二年正月七日、品川の海を一と目に見渡す島崎樓の二階座敷で、当時名うての関取四ッ車大八、九竜山波右衛門と、芝のめ組の鳶の若い者が、ささいな事から衝突し、留めに出ため組の組頭浜松町の辰五郎を散々に罵るので、辰五郎はその夜明け、高輪の八ツ山下に四ッ車の帰りを待ち伏せするが、炊出し喜三郎の駕が邪魔して意を果すことができなかった。(世話だんまりの場) 月が代って芝神明神社境内の宮芝居で、め組の若い者と九竜山との喧嘩が始まり、どう思い返しても、 このまま黙って引込んでは男の面目にかかわると、意を決した辰五郎は、花も名残の三月廿四日、可愛い女房に離縁状を出し、神明境内の花角力の閉場を知らせる太鼓の音を合図に、め組一同火事場こしらえ 鳶口、梯子を小脇に別れの水盃をすませ、半鐘を打ち鳴らして角力小屋へ押しよせる。
待ち構えた四ッ車、九竜山とここに大喧嘩が始まるが、顔役の炊出し喜三郎が喧嘩の中へ割って入り、 お月番の町奉行と寺社奉行の法被を示して、喧嘩をおさめるのであった。 江戸の町火消は、元禄四年(1691年)町奉行大岡忠相が監督の下に、一番より十番までを四十六組に分け、いろはを以て符号とし、め組は二番組に属していた。組内の組織は、人足(まだ火消の数 に入れぬもの)、鳶の者(蔦口を持つ火消)梯子持、纒持、組頭があり、組頭をまとめるのは頭取で、辰五郎は、め組の組頭であった。 火事と喧嘩は江戸の華と言われたが、この小唄は、芝神明の氏子の辰五郎が、ひくにひかれぬ男の意地 から喧嘩となる気持を唄っており、いなせな鳶の者と、角力とが入り乱れての大喧嘩も、一度和解の手打がすめば、それっきり五月の鯉の吹き流し、腹に一物も残さない江戸っ子の心境を、唄いこめれば成功で あろう。
昭和十五年辰年の新曲である。 [註]東雲=あけ方、曙と同じ。 櫓太鼓=相撲小屋の前に高い櫓を立て、開場前と打出しの際、打ちならす太鼓をいう。昔、両国の櫓か ら、暁の静寂を破って打鳴らす太鼓の音は、安房上総にまで聞ゆるほどの撥の冴えをみせたという。 かけまくも=かたじけないの枕言葉。
 
 

小唄 蝶千鳥

本調子
唄・春日とよ栄芝  作詞・市川三升  作曲・吉田草紙庵
 
空に一声 時鳥(ほととぎす)きくや牡丹の蝶番い 
離れぬ仲のむら千鳥 富士の裾野に並び立つ
姿なつかし 五月晴。

 

解釈と鑑賞

季節 陰暦仲夏 五月二十八日
[名題]『夜討曽我狩場曙(やうちそが、かりばのあけぼの)』時代物。
明治十四年(1881年)新暦六月、新富座、河竹黙阿弥作。
『あらすじ]建久四年(1193年)五月廿八日、東国八ヶ国の諸侍を集めて行われた、頼朝公の富士の牧狩(まきがり)も、明日一日で終るという日、正午頃から降り出した強い梅雨のために狩は休みとなり、武将の仮屋は何れも 酒宴を催して労を休めている日暮時、河津の三郎祐泰(すけやす)の忘れ形見、曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の兄弟は、旧恩を 忘れぬ鬼王新左衛門、富田団三郎と一緒に、身分を隠して富士の裾野の百姓家にひそみ、鬼王と団三郎 は畠山殿の下廻りとなり、十郎はただ一人雨を幸と、仇工藤左衛門祐経(かたきくどうざえもんすけつね)の仮屋のあたりの地理を測って いる所を、工藤の家来に見咎められ、計らずも工藤と対面する。
討入は今宵をおいてはないと決心した十郎五郎は、鬼王と団三郎に母満江(まんこう)の事を呉々もたのみ、母より 形身に送られた『蝶と千鳥の小袖』を身につけて、篠つく雨を侵して狩屋に忍びこみ、その夜工藤の仮屋 に招かれた、かねて馴染の大磯の廓の傾城、化粧坂(けはいざか)の少将、喜瀬川の亀鶴(かめつる)の手引によって、首尾よく工藤を討って十八年の恨を晴らすが、十郎は仁田四郎に討たれ、五郎は御所五郎丸に生捕られ 上りの富士の美しく照り映える中を、頼朝公の仮屋に引立てられる。
曽我兄弟の敵討は、『東鑑(あづまかがみ)』『曽我物語』に作られ、人形浄瑠璃歌舞伎に入って数多くの曽我狂言を生み、このほか『初春興行』の項で述べた通り、実録を離れて、ともかく題目だけを『曽我』とす る狂言が、芝居道の吉例となり、歌舞伎の正月から五月の曽我の討入まで、狂言には必ず曽我の名を出す 慣例が、明治の初年まで行われた。 『夜討曽我』は、曽我の討入を実録風に脚色したもので、明治の新しい思潮 に即応した時代劇で、い わゆる活歴の曽我劇。九世団十郎の五郎は、小手、脛当、腹巻、草鞋(わらじ)という活歴風の装束であった。
小唄の『蝶千鳥』は、昭和十一年四月・歌舞伎座『団菊祭興行』のとき出来た曲で、『空に一声』は カン、あとは東明節の『大磯八景』の手をつかっており、草紙庵自慢の小唄の一つである。 すらすらとした出来で、『五月晴』に、兄弟の喜びを象徴する唄い方でよい。
[註]きくや牡丹=杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)は市川家の紋で、九世団十郎の五郎を指し、きくやは菊で、五世菊五郎の十郎 を指す。
蝶千鳥=母から送られた小袖の模様から兄弟のことを指す。