小唄徒然草 29

小唄名作集〜伊東深水作詞集~

【解釈と鑑賞】は木村菊太郎書 「昭和の小唄」その1~その3より抜粋」しています。

1、信濃屋(お半長右衛門)(春日とよ・曲)

唄・春日とよ 糸・春日とよかよ
 
儀濃屋に 結ぶ帯やの仇解て 流す浮名も 娘気の ただ一筋の 影法師
心 細道 三筋町 妻にも名残 押小路 油小路の 思惑も 消えて
いつしか 桂川

(注)同じ歌詞による 初代の佐橋章子師の曲も現存しているが、このレコードに収録された曲は、春日とよ師がそれとは別に作曲されたものである。

解釈と鑑賞

桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)歌舞伎世話物享保の頃、桂川(京都嵐山)に、14・5歳の娘と50男との死骸が流れつき、殺害か心中かと噂され、これを、脚色していくつかの芝居が生まれ、これを、集大成したのが本作である。
正月、京の押小路(上京区)虎石町の呉服屋「帯屋」の養子長衛門は、遠州の殿様より、正宗の脇差の研ぎの下命をうけての戻り道に、近江の国(滋賀県)石部の茶屋で、お伊勢参りからの帰り道に隣家の信濃屋の娘「お半」の一行と泊まり合わせる、その夜丁稚の長吉がお半に横恋慕しかけるので、長右衛門の部屋に逃げ込んだのが縁のはし45歳の長右衛門と13歳のお半がふしぎな契りを結び、それから5カ月、お半は、ただならぬ身体に。
このほか、お伊勢参りという江戸端唄にもうたわれている。

端唄 お伊勢参り このページに、音源リンクしていません。

お伊勢参りに 石部の茶屋で、逢ったとさ、可愛い長右衛門さんの岩田帯しめたとさ
えさっさのえっさっさのえさっさのさ

2、通り魔(吉田草紙庵・曲)

唄・小唄幸子  糸・小唄幸とよ
 
春風は、ほんとに憎い 通り魔よ たれも知らない 淋しさを 人の心のすきまから
そっと投げこむ通り魔よ

解釈と鑑賞

深水は昭和5年大森池上本町に画室を移した当時、小唄「春日派」を創流し立ての頃の
春日とよが小唄を教えにみえていた、その頃、作詞されたもの

3、鳥辺山(春の淡雪)(千紫千恵・曲)

唄・千紫千恵  糸・千紫弘恵
 
ー人来て 二人つれだつ極楽の、清水寺の鐘の声 合惚れという 仲人に
結ぼれ初めて 思ひそめ 尽きぬ縁も うき橋に かけし命の 縫之助 
恋路の闇に 身を捨小船(すておぶね)はかなき願い うたかたの 
一足づつに消えてゆく 鳥辺の山の 春の淡雪

解釈と鑑賞

昭和35年開曲 作曲の千紫千恵が心から尊敬していた木村荘八が急逝し、これからは、古典小唄だけではなく、時流を踏まえた、新作小唄も大切にしてほしいと、言い残していた、
荘八、亡き後、伊東深水が、得意の新作小唄を書いてくれたことに勇気づけられ、深水の小唄を4曲作曲して、開曲した その中の一つである。

4、初松魚(はつがつお)(杵屋六左衛門曲)

 
唄・小唄幸子 糸・小唄幸とよ他
 
初松魚、重ね扇に 風薫る 季節もよしや 福牡丹 東男にゆかりある
ゆるしの色の紫を、競ふ あやめや かきつばた、開く舞台の面影も
残り香 高き 団菊を 偲ぶ よすがの 大歌舞伎

解釈と鑑賞

昭和33年5月開曲 歌舞伎座の「団菊祭」復活を記念しての作

5、日本橋(春日とよ・曲)

唄・春日とよ 糸・春日とよ晴
 
笛の音も 曇りがちなる 弥生空 暗き思いに 葛木が たちきる絆
川水へ 流す供養のひな祭り つながる縁の 西河岸も 春で朧で
ご縁日 お地蔵様のご利生が 利いてお神酒の 酔い心地 一石橋の
達引も 意地が命の 左褄

解釈と鑑賞

この新派小唄『日本橋』は、芝居の意匠考証をした伊東深水が、当時浪曲界の大御所であった 木村友衛から、姪の踊りの会のために作詞を頼まれたもので、『春で朧で御縁日』という喜多村緑郎の声色は当時の若い者は誰でも口ずさんでいたので、之をとりあげて作詞したものである。

これを受けた春日とよの作曲は、『日本橋』上は『一石橋の場』で、~笛の音も曇り勝ちなる弥生空~は 淋しく出て清葉を唄い~暗き思いに~は、葛木を唄い、ここでガラリと調子を変えて明るい早間となり~春で朧で御縁日~をカンでお孝のセリフを唄い、続いてへ意地が命の左棲~を聞かせて、日本橋芸者 の心意気をはっきりと示し一幅の絵のような舞台を彷彿とさせる。
※ 「達引(たてひき)」とは互いの意気地を張り合うことである。

6、辰巳の左褄(清元寿兵衛・曲)

唄・伊東深水    糸・小唄幸子
 
喧嘩は江戸の概響や、町のそろひの半纏に 巾を利かせた 秋祭り
もんだ神輿のおさまりも つかぬ気性の 勇み肌 夜宮にかかる
永代の 浮名も たつみ 深川や 八幡鐘のきぬぎぬに 仲町結ぶ
富ケ丘 お神酒が利いた 酔いと酔い あっしゃ 辰巳の 左褄

解釈と鑑賞

(昭和31年秋開曲) この小唄の作詞の伊東深水は明治31年東京深川に生れ、
自分の生れた土地を生涯誇りとして、画にも描き小唄にも作った。
小唄、「辰巳やよいとこ(大正末期作詞)」と『辰巳の左棲』とは対になる小唄 の名作である。 小唄は江戸時代の深川の『辰巳芸者』の艶と、きかぬ気性の勇み肌を唄ったもので、
31年秋に小唄幸子開曲され、直ちに唄幸子、糸幸とよ、替幸みつによってコロムビアレコードに吹込まれた。

深水の情緒溢れた派手な作詞と、寿兵衛の『小唄振り』を頭に入れた心憎い作曲と、幸子の江戸弁を使った唄、 たとえば~永代の~のところ)が小唄人の共感を呼び、戦後初めてと、いうくらいの人気を博した。中でも「あっしゃ」辰巳の左褄~の所は、辰巳芸者でも女だから『わたしゃ』とか『あたしゃ』ではないか~と小唄愛好者から疑問が出されたが、深水はこの事を百も承知で、『あっしゃ』の ところは、大声で唄うと男になるから、小さく鉄火な口調で唄ってほしいと、唄の小唄幸子に言っていたと聞いている
深水が『辰巳の左褄』の作曲を是非幸子にやるようにと勧めた時、幸子は作曲などはとて自信がないと辞退し、代りに清元寿兵衛を推挙し、自らも寿兵衛の所に足を運んで作曲を依頼している。これは小唄の作曲は、邦楽の各部門に精通した人がやってこそ本物ができる、
作曲をやるなら『作曲法』を専門に勉強しなければ、という幸子の『芸に付いては納得できるまで追求する』という信条のあらわれであろう。

が、もう一つ 幸子は、清元でも語りに廻り、小唄でも唄方として活躍した、発声法に自信があったので『小唄の演奏者』としてその生涯ささげたいというのが本当の気持であった、
と筆者は想像している。

7、愚痴(ぐち)を舞ふ~冬灯~ (杵屋六左衛門・曲) 

遠藤為作、伊東深水合作詞
唄・糸 小唄幸子
 

ぐちを舞ふ  絵に描きそへし冬灯(ふゆともし) 主待つ宵は 影暗く
思いも重く 積む雪に 更けてうれしき 四つの袖

解釈と鑑賞

昭和35年1月開曲
この小唄は、地唄舞の竹原はん、が、愚痴を舞う舞台姿を描いた伊東深水の美人画(昭和34年第2回新日展出品作品)(添付画像参照)を唄ったものである。

※四つの袖 二人の袖を合わせた「四つの袖」と夜中の「四つ時」を掛けて、契りを結んだ後の別れのつらさを歌ったもの。

参考 竹原はん 54歳 昭和32年 放送の録画
地唄舞「鐘が岬」(YouTube)