小唄徒然草37 小唄春日派・家元 春日とよ一代記 連載2
とよの小唄は祖母から歌沢や小唄を仕込まれたのが始めで、その後、母や母の友達から教わったが、小唄に魅せられたとよは、森ヶ崎の田村てるの所へ通ったり、木挽町の吉村ゆうの稽古場へ通って古典小唄を勉強した。
しかし最も影響をうけたのは初代村幸の小唄であった。
とよは村幸と交際した六年間に清元お葉譲りの、横山さきの小唄の妙味を会得した。
筆者が春日派を横山流の一派として数えているのはこのためである。
村幸を知ってからは、芸者をやめて馬道七丁目に『春日』という待合を開いたが、大正十四年八月村幸が急逝したのちは、稽古をしてくれという人ができて、さらに、小唄の稽古に打ちこみ、市川の一直を借りて『村雨会』という、少人数ながら始めての小唄会を開いたのは昭和二年、会の名は小唄の師、村幸を偲んでつけたものであった。
とよが、待合いを人に譲り、家元春日とよを名乗って、下谷西黒門町で小唄師匠の看板をかけ、その半生を小唄に打ち込もうとしたのは昭和三年(四十七歳)であった。
しかも一派を立てるに当って、これまでの横山流小唄を基礎としながらも、自分の主張する唄い方、弾き方によることとしたのは、とよの識見であった。
間もなく下谷と葭町と柳橋に出稽古を始め、放送もJ0AK(NHKの前身)だけでなく、各地に放送局にも出演する様になった。 翌4年6月に名取の第一号が誕生した。
春日とよ福(小林弁三の妻フクで待合時代からの弟子。)
作詞家小林栄、春日とよ福園(春日とよ稲の母)
とよ喜、とよ寿(名古屋)とよ松、とよ菊、とよ雪、とよ弥、とよ光など
つづいて同年十二月の名取第二号は、とよ栄(とよ初期の相三味線)、とよ吉、とよ歌、とよ柳(料亭都鳥の女将)、とよ美、とよ駒、豊輔 であった。
とよの口添えで『鶴春日』の分看板で芸妓屋を出したとよ晴は、身体が悪くて芸妓屋をやめていたが、再びとよの所へ戻り住込みでとよの世話をしていた。
続いてとよ貴、とよ房(大阪)、とよ延(大阪)、とよ幸(京都)、とよ藤などの名取が生れた。
春日とよの昭和初年の習作小唄
とよは待合時代から習作の意味で、幾つかの新作小唄を作曲していた。
★ 朧夜や
初代春日とよ 作詞作曲
朧夜や 木の間にゆらぐ
ぼんぼりの 灯影まばゆき櫻花
手拍子打てば ちらちらと
散るを惜しまん 春の宵
(新暦晩春四月・大正末年か昭和初年作)
出典 都の華-春日小唄集より
解釈と鑑賞
この小唄は春日とよの処女作で、待合『春日』の女将時代の作である。
流石に文学芸者と言われただけに、美しい歌詞で
雪洞のついた大正期の上野公園の桜の夜を美しく唄い上げている。
作曲は始めから本調子の替手をいれて賑やかに、〜ちらちらと散るを惜しまん⋯⋯を聞かせ所として、
古典小唄の 桜見よとて⋯⋯を思わせる曲となっている。
現在春日派では〜鐘一つ 笠森おせんのあとに続けて唄うしきたりとしているのは心憎いことである。
★ 無理な首尾してわくせき
本調子
無理な首尾してわくせきと
来て見りゃ憎らしい高鼾
叱られる覚悟で起こせばあちら向く
エエ焦れったい春の夜が
静かに更けて行くわいな。
(新暦晩春四月・昭和初年作)
出典 都の華ー春日小唄集
解釈と鑑賞
この小唄は、古典小唄へ無理な首尾して出先から、用事をつけて逢う夜さはを下敷きとした、新作小唄である。
小唄の主人公は大正期の芸者で、筆者はとよが、愛人村幸との逢瀬の思い出を、この小唄に託して唄ったものと想像している。しっとりとした古典小唄調の、よい小唄である。
★ 黄楊の櫛
平山蘆江・詞・初代春日とよ・曲
三下り
黄揚の櫛 ちょっと 横ちょにとめて とまらぬ
情知らずの ビンのほつれ毛。
(季節なし・昭和初年)
出典 都の華ー春日とよ小唄集
この小唄は、平山蘆江の大正年間の旧作を、とよが習作したものと推定する。『黄楊の櫛』というと
筆者は、岡田八千代作の新派「黄楊の櫛』(大正十年五月横浜劇場初演)の、喜多村緑郎の銀杏返し、生きな浴衣がけに黒繻子の帯のおなつを思い出す。
芝居は明治の終りの下町の、黄楊の櫛職人の豊之助は気のやさしい男だが、妻のおつなが父親の体に手をあげたことが我慢できず、父や兄姉に意地を立てておつなと別居して、父親と二人で住んでいる。おつなは、あきらめきれず、豊之助が近くの娘を貰うとの噂に、再び豊之助の家に忍んで、手をついて詫びるが、夫は、許さない。
しかし夫の心にまだ自分への愛情が残っている事を確かめたおつなは、帯の間に隠しもったかみそりで邪魔になる舅を殺そうと走り出すが、夫にとめられると豊さん、二人でお父さんのいない所へ行こうと突然豊之助の脇腹を刺し、返す刀で乳の下を突いて折重なって倒れるという筋である。
作者は女性の立場から、当時の旧式な家族制度と、結婚制度から自由になろうとする女の悲劇を描いた力溢れる作品であった。
蘆江は勿論この芝居をみていて、喜多村の扮する小意気なおつなを下敷にして、それよりもっと伝法な大正期の女を唄ったものであろう。
とよもこの芝居をみていたと思うが、歌詞が大正期の女性ということから古典小唄調に仕立てている、が黄楊の櫛の出から、意気で伝法な下町女の姿態を、描いているのは、女性ならではの作であることを思わせる。
★ あちらはあちら
あちらはあちらで来いと言う
こちらはこちらで来いと言う
来いと来いとに夜が明けて
どっちも行かない瘦せ我慢
阿呆阿呆と鳴く鳥
逢おう逢おうと聞いてるうち 日が暮れる。
(季なし・ 昭和初年作)
出典 都の華―春日小唄集
解釈と鑑賞
この小唄も平山蘆江の大正年間の旧作の一つであろう。蘆江の『小唄解説』によると、「この唄は私の作ですというのが恥づかしい程いやな唄だと書いている。この頃、とよは作曲に興味がのってきていて、幾つでもよいからドンドン作って下さいとせっつかれるが、蘆江の方は行き詰りになって、新作ができても気に入らず、気ばかりあせって、兎も角、まとめて、とよに送ったが、とよは嫌な顔もせずに新曲に仕上げたという。
この小唄は後述の、情けもしみると同系統の男唄で、早間の糸でドンドンと運んで嫌味がなく、前弾と後弾とが勝れている。
★ 降る雪に
本調子
降る雪に やや消えかかる足跡や
二の字の主の面影が
目にちらついて 消えぬ きぬぎぬ
平山蘆江の「小唄解説」によると、大正9年頃、二長町の市村座の楽屋では、森田勘弥、中村吉右衛門、支配人の三木重太郎などが中心で小唄が盛んで、新作小唄の募集を行った。一般に募集はしたものの、ものになりそうな新作が集まりそうにもないからと、選者の一人であった、都新聞の平山蘆江が、あらかじめいくつかの新作を用意したが、降る雪にと情もしみるの二題がその時用意した中の二作であった。
歌詞の後朝は、衣衣の当て字で、昔は男が女の所へ通うのが習慣で、二人は脱いだ衣を重ね合って夜を明かしたが一夜明けると、また、銘々の衣を着、衣衣になって別れたことからこの言葉が生れた。
この小唄は、二人が出会茶屋で逢った翌朝は雪、門口で別れを惜しんだ男の二の字の下駄の跡が消えかかるのを見送る女の気持を唄ったもので、とよの作曲は、名残を惜しむ妓の気持を古典小唄調唄っている。