小唄徒然草36 唄・春日派家元 春日とよ一代記

小唄・春日派家元 春日とよ一代記をコンピューター音声に朗読させます。
何回のシリーズになるか未定ですが、今回は第一回です。

 
初代、かすが、とよ(明治十四年-昭和三十七年) かすが、とよの登場
昭和五年五月八日、かすが、とよは、帝国ホテル演芸場で『小唄春日派』披露の小唄会を催し、平山蘆江作詞 『春日野』『逢いたい病』の新作小唄二曲をひっさげて、小唄界に登場した。

1、春日野

平山芦江 作  春日とよ 曲
(本調子)

春日野の
若紫の すそごろも
しのぶの みだれ
かぎり 知られぬ
わたしの思いを
糸にた よりて
唄とう 一と節

2、逢いたい病

平山芦江 作  春日とよ 曲(季なし・昭和五年五月開曲)
(本調子)

あいたい病が
少し此の頃 つのり過ごして
どうにもならぬ
人に 意見を 云ってみる程
気楽な気分に なれぬものかいな

 
とよの本名は、柏原トヨ。明治十四年九月十五日、浅草花川戸で生れた。
父は、エドワード・ホームズという英国人で、とよは、『混血児』であった。
生れつき朗らかで芸事の好きな、とよは、浅草芸者の母と同じように、かすがや、鶴助の名で芸者に出たのは、数え十六歳(明治二十九年)であった。
痩せ形の美しいひとで、どうせ混血児だからと、島田ではなく洋髪で押し通したのが評判となり、その上、文学と芝居に趣味があった所から、「あいのこ芸者』『文学芸者の鶴助』とよばれて土地の人気を集めた。

 
芸は常磐津が一番の本芸で、始め名取の母の手ほどきをうけ、つづいて日本橋の丸子(朝居丸子のち初代浅井丸留子) と共に常磐津三蔵の高弟で常磐津三代松の名を戴いている。

次に、清元を清元延繁葉、長唄を松永鉄太郎と松島庄五郎、一中節を都派と菅野派に就き、舞踊を花柳輔次郎、義太夫を竹沢竜蔵、謡曲を桜間金馬に就いた。

後年、薗八節を宮薗千寿に就いて、千豊の名を、荻江節を荻江寿友について、寿々豊の名を許された。

鶴助時代のとよは、売り物の声も節もあでやかで美しく浅草芸者の子などと共に、他の花柳界に比して遜色のない名妓として吉原稲弁楼の当主小林弁三も褒めていた。

25歳の時、ある人の世話になって一度芸者をやめたが、大正2年(32歳)再び浅草から芸者に出たが、この時は、自宅で芸者置屋「春日家」を営んでいた。
「春日家」は当時、芸が高いと有名で、人間味あふれる人柄が評判であった。

大正四年、伊東深水が新派の井上正夫に伴われて春日家にみえ、半玉の豆鶴(のちの春日とよ晴)が炬燵にあたって演芸画報に見入っている後姿をモデルにして『十六の女』を描いて、文展に初入選して話題となった。
この時豆鶴は実は14歳であった。